fumée d'ambre gris

出来の悪い人。思ったこと、考えていることを書く。何か嫌になったら逃げ込んでくる。音楽を作る。

垢とルレーブ -Ⅰ-

耐えきれず大きな欠伸が一つ出た。ぼやけ始めた視界に喝をいれるように頬を両手で二度叩く。

「お〜い、中村。そろそろ上がっていいぞ。」

「あ、はい。ではお先に失礼します。」

上司からの解放発言が出た時が俺の終業時間なのだ。時計を見ると24時を少し回っていた。これがいわゆるブラック企業というものなのだろうか。今日の残業時間は6時間。プライベートの時間なんてほぼない。でも残業代はちゃんと支払われている。それが俺の退社の決断を鈍らせている原因だった。

「お疲れ、雅。」

「おう、圭。お先。」

仲の良い同僚に上がりの挨拶を済ませ出口へ向かう。靴箱を見たところ、俺と圭と上司以外にまだ3人ほど残っているらしい。まだ解放を告げられていないのか、それとも自ら残り続けているのかはわからなかった。いくら週末とはいえ、どうせ明日も出勤しなきゃいけないのに...。不思議には思ったがもうそれ以上のことを考えることが脳にとって負荷であると気づき、ただ帰ることだけに集中し会社を出た。こんな時間でもまだ人はいるんだな...。と満員ではないが座席は空いていない車両を見て思った。ただ、僕より皆元気が残っているように感じられ、何だか自分だけがこの車両内で一番下位の人間であると意識し、突如重苦しい憂鬱が襲ってきた。はぁ、何の張り合いもない。ただ金を欲し必死になって水中から空気を求め浮上するような虚像が現れ消えていく。そう惨めになって来たところで最寄駅に着いた。ホームに降りるとやはり人影は少なく、この町でこんな時間まで労働を強いられているのは俺だけなのだなと呆れ、なんだか面白くなって変な笑みを浮かべて自宅まで帰った。

風呂から上がると時計は深夜2時前を指していてなんだか無性に腹が立ち、そして一瞬でそれは消え失せすぐに失望へと変わった。俺はこうやって毎晩深夜に帰宅し、また明日の朝から労働を始め、一生あの解放宣言を待ちわびるような会社にしがみ付いていかなければならないのか。そんなに苦しいなら辞めればいいと世間は簡単に言うが、それはほかに出来ることがある人間の言うことだ。俺には他に出来ることなんてないし、趣味といえばそこらに生えている雑草を写真に収めるくらいだ。時折花園なぞに赴き花々を撮ることもあるが...。といっても撮影の技術は素人のそれでとても仕事に出来るようなものではない。おっと、また一人問答になっていたぞ、と呟き俺は現実に帰ってきた。早く寝ないと明日の始業に遅刻したら大変だ。俺はすぐに着替え、髪を乾かし、ベッドに潜り込んだ。電気を消し、目を閉じて眠りにつくのを待つ。しかしその日はいくら待てども意識を失うことがなく、必死に瞼を下ろし続けていることが苦痛になってき、遂に起き上がってしまった。そして、これまで生きてきた全ての時間分の忍耐が限界を迎えたような疲れが襲ってきた。そして一種の方法、もとい輝かしい未来が身体中の神経を駆け抜けた。自殺。その先の見えない結末にとてつもない希望と現在からの解放を感じてしまい。そこからは脳が冴え渡ったように計算を始め出した。いつも6時34分の電車に乗り、7時20分に会社に着き始業する。その始業時間に俺の訃報を告げるようにするにはもう2本でも遅い電車に合わせればいいはずだ。都合のいいことに最寄駅には各停の車両しか止まらない。狙いと時間を見定め急行列車に飛び込めば一発で済むはずだ...。自分でも理解できないアドレナリンが一気に解き放たれ、死こそ救世、最後最高の手段だと思考しだした。もう止められない。善は急げ。思い立ったが吉日だ。なんだこの気持ちは。この思考の晴れようは...、まるで今まで気づかなかったのが馬鹿みたいだ。なぜ俺があんな会社で雇われ続けなければいけない。あそこは単なる地獄じゃないか。俺は天国へ行きたい。生憎ガキの頃は万引きもイジメもしたことは無ければ嘘を吐いたことも無い。天国だ...。快楽だ...。遂に俺は救われる...!。そうやって神経を走らせるとドッと眠気が襲ってきた。これで眠れる。そして明日にはこの地獄ともオサラバだ。そう確信し、再びベッドに潜り込む。すると意識することもなく、スーッと視界が狭くなっていった。

 

目を覚ますとひたすら野花が広がる平原に立っていた。

「 ここは...?」

シンプルにそれだけを思い、取り敢えず自分が向いている方角へ歩き出した。スマホも無ければ腕時計もない。というより服装が一式カジュアルな、どこか時代を感じさせる物になっていた。一体ここはどこで今日は何月何日で、何時何分なのかも確かめようが無い。そして自分がどこに向かっているのかもわからない。行けども行けども平原。そして野花が咲き乱れている。いくら歩けど、景色にあまり変わり映えはなく、なんだか不思議な居心地でいた。というのも、自分がここから一生出られなくとも、ただひたすら歩けど何も無いこの風景から解放されなくとも心配する必要は無い。むしろ安全だといった感情が僕の中をいっぱいに満たしていた。すると、遠くの方に一軒屋を見つけた。そのレトロで洋風な外観を見るところ、どうやらここは日本ではない、ということが何となくではあるがわかった。気づいてみれば、周りに咲いている野花は趣味で花園に行った時ですら見たことの無いものが多く咲いている。とにかくあの家に行ってここはどこなのか聞いてみよう。そう思って歩き続け、ようやく玄関の前まで来た。2階の窓だけが開いていて、辺りはしんと静まり返っている。しかし煙突から微かな煙が、鼻腔をくすぐる甘い匂いと共にほわほわと上がっているところを見るとどうやら家主は現在しているらしい。ドアの前に立ったがインターフォンが無い。やはりここは日本では無いのか、と思っているところ、外来を告げるためのようなベルを見つけ2、3回ほど鳴らした。すると一人の綺麗な女性が出てきた。

「あの...」

と俺が問いかけようとすると

「おかえりなさい。お昼は今作ってるから。アーシャもいずれ帰ってくる頃よ。」

と当たり前のように告げられ、台所へ引き返していった。ここまで来るといよいよ僕の頭も真っ白だ。アーシャ?誰だ?というかそもそもあの女性は一体何者だ?そしてここは一体どこなんだ?とボンヤリしていた意識が急に戻ってきたような感覚を覚えた。とりあえず、失礼しますと言って家の中へ入る。すると、彼女が

「な〜に、それ(笑)。珍しい花でも見つけて回心したの?私は今までの貴方が十分好きよ?」

と笑われますますわけが分からなくなった。そしてパニックに陥り頭を搔きむしり声にならない声を上げ藻掻き出した。

「ちょっと、落ち着いて!?一体今日はどうしたの?」

と焦ったように彼女は言う。今日?じゃあ昨日が、その前もがあったとでもいうのか?わからないわからない。俺はあんたとは今しがた初めて会ったハズだ!と心の中で藻掻き続けた。そして、しばらくして落ち着いてから、改めて彼女に問うた。

「貴女は一体誰なんです?そして僕は一体誰なんですか?ココはどこですか?そしてアーシャとは...」

「落ち着いて!落ち着いてよチャール!今日は一体どうしたっていうの?さっき散歩に行くまではいつも通りだったじゃない。もしかして魔女?魔女にでも会ったの?」

チャール?それが俺の名前か?そして散歩に出かけた?挙句には魔女?おいおい、お伽話なんかしてる場合じゃないんだぞ!全く意味がわからない。すると彼女は聡明なのかスッと目を座らせ俺に話しかけてきた。

「お巫山戯なのか何なのか知らないけどいいわ。付き合ってあげる。いい?貴方はチャール、オーストリアハルシュタット生まれの花が大好きな優しい人。そして私は貴方の妻、ミリア。オーストリアで旅をしてる最中に出会って、そこからお付き合いをして、結婚をしてここ、アメリカのジョージア州オールバニに越してきた。そして今学校へ行っているのが娘のサーシャ。貴方と私の子よ。これでいい?合ってる?」

合ってるかだって?それはこっちが聞きたい!が、一心に自分を落ち着かせ脳内を、精神を安定させた。チャール。それが俺の名前。そしてこの見目形の整った女性が俺の妻、ミリア。そして彼女と俺の間にはサーシャという娘がいる...駄目だ。考えたところで全く解決しようがない。今度は俺から彼女に問うた。

「いいですか?奥さん。いや、ミリアさん。私はチャールではなく、名前は中村雅と申します。そして貴女とお会いするのは初めてのハズです。サーシャという娘も知りません。そしてここは一体どこなんですか?」

俺の言葉を聞いた彼女はサーッと顔の血の気を引かせて倒れてしまった。

「奥さん!?ミリアさん!しっかりしてください!」

そう問いかけつつ、ふと玄関に置いてある姿見が目に入り視線を向けたところでひっくり返りそうになった。そこには、その姿見の中には40半ばといった細長い顎髭を少し伸ばし、平均男性より長い髪を後ろで束ねた男性の姿があった。俺は姿見にしがみ付き、自分の顔を何度も触り、叩いた。すると姿見の中の男まで同じ動きをするではないか...。信じられない...雅は...俺はどこにいった?そしてこの世界は何だ?ふと考えようとして冷静になったところで、ミリアという女性が卒倒していることを思い出し、抱きかかえ、全く配置のわからない部屋の戸を何度も開きながらようやく寝室を見つけ彼女をそっと寝かせた。なんだ。なんなんだここは。そしていつの間に俺はこんなに老けた?いや、というより最早日本人ですらなかった...。一体...一体...、そう考えてるうちに玄関を開く音がし、

「ただいまー。」

と可愛げな少女の声が聞こえた。