fumée d'ambre gris

出来の悪い人。思ったこと、考えていることを書く。何か嫌になったら逃げ込んでくる。音楽を作る。

ベラル

3ヶ月ほど前から持病が悪化しだし、遂には仕事さえも出来なくなってしまった。

それから2ヶ月間の記憶がほとんど無く、ただ意識の無い木偶のように歩き、ある時は改札機の様に声を発し、ある時は作者のわからない、かつて輝いていたのかさえ怪しいほどに酸性雨によって溶かされた銅像のように沈黙していた。その2ヶ月の無意識状態は今月のある朝、まるで凍結した蛇口のように多量の食塩を口に含み目覚めた時を境に終わりを迎えた。それから今日までの3週間はあっという間に過ぎて行き、その過程のどれもが実に時間の流れを感じたというに相応しい耳触りであり感情の吐露であり、意志を持った生物としての生息であった。

しかしそれまでのたった60日の間に知人は歳を取り、時間を進み、新しい居場所を確保し、更に躍進せんと言葉を発していた。

『でも、どうなるかはわからないよ。』

度々発せられたその言葉の頭と尾に僕は眩暈がするほどの光を、そして目尻が引き攣るほどの将来を感じた。

それに比べて自分はどうであったろう?只々視界に広がる真っ白な天井を目にし、時には液晶に映る卑しくも華やかな三原色の集合体を、街に出れば互いの顔を向け合い、前を見て歩く人々の暮らしを目にした。しかし幾ら思い出せど、そこに自分が歩いていた痕跡は無く、ただ浮遊し続ける影、存在するのかは危ぶまれるが例えるなら幽霊のような輪郭だけが、その時その場所に存在していたという微かな証拠映像を度々視点の切り替わる監視モニターのように映出していた。

すれ違う人の笑い声や、進行方向を確認する時にだけ視点を上げた際、映る人々の顔は鮮明に記憶している。しかし僕は僕の顔をまるで覚えられない。何年何十年でも前のあの時ですら僕には顔はなく、ただただ醜い、動物に備わっているそれだけの部位を設置した楕円形だった。今では鏡を見る度に楕円形の上先端を黒く塗り、残りの一切は本来美しく使われるべきであるはずの様々な色が灰色を中心にし、何重にも重なる不揃いな輪環となって描かれている。ついこの間ネット上で非常に近しい絵を見つけたのでSNSのアイコンにしていたのだが母親から不快だと言われ呆気なく変更された。しかし今思えば僕はその絵に魅了され、またそれを肯定するかのように自らの印象を現す位置へと設置していた。恐ろしかった。全く持って醜いと思っていたソレを快く思っていた自分がいたのだ。これが否定の果てに辿り着いた妥協なのか、はたまたその汚れに美しさを見ていた自分がいたのか、今ではまるで理解出来ないが存在したのだ。そんな奇々怪界な現象に日々悩まされていると、時折、という間でも無く頻繁に目にする人身事故という言葉に興味がいってしまう。この死のみを選ぶという行動が一体何によって引き起こされているのか、果たして何を見れば、何を感じればその様な境地に辿り着けるのかを僕は知りたくなる。例えば自殺の真似事などは少なからず多くの人が一度は経験するものだと(今の社会ではその様なモノだと)思っている。僕だって例外では無い。しかしその行動には恐らく2つの意志、目的がある。1つ目は死ねるかもしれない、2つ目は死んでしまうかもしれない、というものだ。僕らはいつだって賭けをする。そこに迷いが生じるが、時期に選ぶ。選択をする、迫られる、否、しなければならない。そしてそのどれかが成功であり、そのどれらかは失敗である。その度に僕らは安寧を目的とし、予測し、選ぶ。その一連の有り触れた行為の中でも僕らが行う自殺の真似事は、今これを読んでいる貴方も経験があるのならば、間違いなく失敗を続けて来たのだろう。それが善であったか悪であったかは僕が決めることでは無いし、時が経つにつれて変わっていくものでもある。ただ、その人身事故というものは賭けるには余りにも無謀な比率の状況で行われる。これはあくまで僕の推測であるが、その賭けの成功は間違いなく死、であろう。そして起こるその凡そは成功していると見て取れる。奇しくも、という言い方は憚られるべきなのだろうが、失敗をした者たちは一体何を間違ったのだろうか。答えは明白であり、僅かにでも残った生への願望である。きっとその願望はこの賭けへの大きな要素であり、作用を及ぼすものなのだろう。生への願望。これは今生きている僕達でも実感できる生物たる所以だ。しかし現実は多くのものがその賭けに成功し、死んでいる。一体何を見れば、何を触れば、聞けば、嗅げば、口にすれば成長をする生物たる所以が無くなってしまうのだろうか。僕はそれがとても知りたくて仕方がない。だがそれを知ってしまうこと事態が教育にも、道徳にも、社会にも、国家にも果てはあの神までもが許さない、何としてでも防ぎたいものなのだろうということはわかる。僕は間違っている。ずっとずっと間違え続けている。失敗している。社会という世界で存在する生き物として正しくない。この2ヶ月間もそうだった。だからもう考えるのは止めようと、今このキーを打つ瞬間、同時に決めた。間違えることはあっても間違え続けるのはいけないらしい。失敗も一度や二度となるも三度目となるといけないらしい。この世界には限りがある。しかし無限もある。ただ僕は無限に憧れる人間ではない。終わりがあるから目的ができるとはよく言ったもので、全くもってその通りである。こんな無駄な思考を凝らしている間にも一つ二つと、人として真っ当にできることがあったであろう。こんな出来損ないや人間のクズにも昇格できない塵芥の問答文に付き合わせてしまってすまない。

いや本当にすみません。

 

そこで、とは何だが人脈も何もない僕が意志と機械だけで作り上げた音楽を置いておく。最近、よく人と会う様になって(感謝してます)、話す様になって、感じたこと、今まで思って来たことが詰め込まれているはず。

音楽は良い。常に糧になり、時には薬になり、毒になる事はない。何故なら音楽には毒と判断したものには一切興味が湧かないというハンデとも誓約とも、もっともっと遺伝子レベルで確約された、習性とも体質とも言える判断材料があるからだ。知ることが遅かった、という言葉はよく耳にするが音楽においてはそれはない。人に聴かせるならまだしも、聴く、楽しむ、安らぐ、活力を得るという点においては摂取するのに膨大な時間を要する作品を残した作家などいない。また無理に知る必要もない。自分がその時、良いと思えたものを手に取り耳にすればそれだけで良いのだ。

 

僕は音楽が好きだ。だから探すし、選ぶし、薬の様に摂取する。点滴の様に身体に打つ。耳から覗き、脳を潜り、喉を泳ぎ、口から湧き上がってくる。

音楽に失敗はない。そもそも失敗と呼ばれるものは自分の心には届かない。

それだけである………はずだ。

 

結局のところ僕は音楽に辿り着くし、何かにつけて音楽しかないらしい。それだけでいい。死ぬってことは死ぬ時わかればいい。だから誰も知らないし知れないのだろう。

 

これを読んでくれた人が、読んだという選択を成功だと思える様、願っている。

 

では。

また。

 

ベイン


噂落としてく悪い顔したピエロがそっと私を見て悲しい顔をした
きっと消えないその頬の涙、私にくれないかな
そうしたら誰か気付いてくれる…なんて。

パンを手に駆け抜ける少女が力尽きて教会の賛美歌が泣き声に変わった
割れた皿、押し黙るグラス、髪の毛混じりで飲めない水も
全部全部、些細なことなんでしょう?

光に照らされて大人になっていった
光に照らされて影は見えなくなった
「気付いて」なんて言わないから
「触れて」なんて言えないから
そうやって飲んだスープは誰にも言えない味がした

優しいママってどんな人?
優しかったパパってどんな人?
声が聞きたいな、名前を呼んでくれないかな
傍観していた8ビート
知らないふりしてた人と一
声は届くかな、届いたらいいな

たすけて

ねぇ、今し方悲鳴を聞いたよ
僕より小さい子供の声
赤いサイレンの音、君には関係ないもんね
画面に映ってる肌の色
取り沙汰された色々
助けてくれる人はいない
神様、貴方もいないなら
もう誰もいないよ何もいないよ何もないよ何もないよ
何もないよ何もないよ何もないよ何もないよ何もないよ
何もないよ何もないよ何もないよ何もないよ何もないよ

「いや、待ってよ。僕がいるよ。」

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